Chetham’s Libraryのコレクション

Diaries of John Reed

Manchester の図書館といえば、Manchester University が誇る John Rylands Library がありますので、Chetham’s Library の話が一番に上がってくることはなかなかないと思います。しかしこの Chetham’s Library は長い歴史をもった由緒ある図書館です。町の公共図書館としては、英語圏ではもっとも古く、17世紀にまでさかのぼることがホームページでも紹介されています。

以前に「鎖付でつながれた図書館」のところでも、Hereford Cathedral Library とともに、この Chetham’s Library に触れました。古い図書館だけに中世写本も保有していいますし、鎖付きの書棚もそのままの姿で残っています。建物も大変な趣があります。

そんな歴史のある図書館ですが、歴史を作っていく図書館でもあります。現在も町の図書館としての役割を果たし続けていて、新しい図書や文書の受け入れを続けています。今回、ここに紹介してみたいと思ったのは、Diaries of John Reedです。Chetham’s Libraryのカタログでは少し探しにくいのですが、以下の

でその概要を知ることができます。1929年~2012年までという比較的長い人生を生きて、10歳のころから(全部は確認できなかったのですがおそらく)毎日書き続けた日記が、そのままアーカイブになりました。前半部分は大戦中の様子、半ばはジンバブエで教鞭をとりながら社会活動をした時代、演劇を開拓する活動をしたことなどが詳しく綴られています。

ホームページでは、その後の人生についてはあまり詳しく触れられていないのですが、人生の半ば以降にニューカッスル大学で Barbara Strang の指導のもとに再度英語学(特に英語史)を学び、博士号を取得されました。若き時代に Oxford で C. S. Lewis に学んだこともあり、英文学も得意でしたので、人生の後半には日本に長く滞在し、英語学、英文学の指導にあたりました。私の先生でもある人です。

当時の日本の国立大学の多くは、63歳あたりが定年でしたので、その後またジンバブエにわたり、幼稚園の設立などに尽力したと聞いています。名誉欲も金銭欲もなく、生き方も完全に自然主義的ながら、驚愕するほどの行動力です。どのような国にもいろいろな人がいるということは承知の上でなお、イギリスの歴史の背景にはこのような人たちが多数いるのだと考えさせられます。

私は博士課程に入るとすぐにイギリスに留学しましたので、その際に推薦状を書いてもらったあとは、Reed先生の授業を受けることはほとんどありませんでしたが、2年に一度帰国されたときには、大英図書館の前で待ち合わせをして、お茶を飲んだりナショナルギャラリーに行ったりということもありました。

なぜ Chetham’s Library にReed先生の日記が寄贈されたかというと、晩年のお住まいがマンチェスターだったからです。私自身、1999年から2000年にかけてマンチェスターに住んだことがあり、このときに、Reed先生との再会がかなって、Reed先生コミュニティともいうべき人々と大変親しい交流をしました。マンチェスターで執筆した Negative Constructions in Middle English はReed先生にも出版前に読んでもらい、たくさんコメントをいただきました。学生にもどった気分で、とても楽しいい交流の思い出となっています。

Reed先生の紹介が長くなりました。話をコレクションに戻します。常に物を読んだり書いたりしておられるのは知っていましたが、70年間以上にわたって日記を書き続けておられたとは知らず、このコレクションを見たときには本当に驚きました。とてもきれいな形で残っています。イギリスではA4版が普通なので当たり前かもしれませんが、紙のサイズや質感も70年間を通して、割合に一定していて、そのままでも製本できそうな雰囲気です。イギリスの文献学をやっていると、手紙のコレクションや日記が大きな歴史的意味をもっていたり、貴重な言語データになったりすることがあります。Diaries of John Reed も、いずれはそのような意味をもつ文献になっていくのではないかと思います。

Reed 先生は、ざっくりとしたカテゴリーでいうと、有名な人ではなく一般の人だったと思います。もちろん大変な知識を有していて、出版物もありましたが、それを知っているのは、ほぼ周りにいた人たちに限られます。しかし歴史という視点から見たときに、Reed 先生は(特にジンバブエにおいて)社会を変えるきっかけをつくり、時代を記録した特別な存在でもあります。晩年はジンバブエからイギリスへの留学生の支援もしていました。どの時代にどの場所に生まれるかはいつでも不公平です。しかしそれだからこそ余計に、与えられた時代をどのように生きるかが問われているように感じました。