言語接触を考える

嶋田珠巳・斎藤兆史・大津由紀雄(編)『言語接触 英語化する日本語から考える「言語とはなにか」』(東京大学出版会、2019年)

東京大学出版会から『言語接触 英語化する日本語から考える「言語とはなにか」』が出版されました。著者の方から献本をいただきました。ありがとうございます。本の紹介をさせていただきます。

本書は、収録された論考を通して、言語接触が場合によっては言語交替にまでつながる重要な問題であることを教えてくれます。アイルランドが英語との関係においてどのような歴史を経験してきたか、そしてそれを参照しながら考えるとき、私たちは日本語とどのように向き合うべきかを考えさせられます。

とりわけ印象に残ったのは、私たちの母語が英語でないということだけで、論文を英語で書く際に多大な負担を強いられていることが自然でないという点です。またそのような自然でない現象が社会のさまざまな側面で観察可能であるという点にも、なるほどと思うところがありました。

その上で解決策となるとこれまた容易ではない、という印象を受けましたが、もしかしたら近年のAIの発達の中に何かヒントがあるかもしれません。先日、私が書いたある論文を読みたいという問い合わせを受けた際に、「その論文はたまたま日本語で書いたので残念です」とお知らせしたところ、すぐに「日本語であっても手元で英語にすることができるので送って欲しい」という答えが返ってきました。今後は、もしかしたらなんでも英語という時代は終わっていくのかもしれません。

もちろんAIについては、いろいろ議論もあり、脅威を感じている人も少なくないかもしれません。語学関係の仕事をしている人にとってはとりわけ重要な問題です。しかし、AIに置き換えられるようなことを超えたところに目的がシフトしていくのは本来あるべき姿で、肯定的にとらえてよいとも感じます。

また日本語との言語接触というと、たびたび英語との関係が問題となりますが、日本語に限らずあらゆる言語は多様な言語とも接触をしているので、日本語と英語との関係ばかりが強調され過ぎてもいけないかもしれません。結局のところ、日本語も英語も話者人口が多い、メジャーな言語だと思います。日本語は私の母語でもありますから、とりわけ大切にしたいと思うわけですが、考えてみれば、日本語よりもずっと人口が少ない言語は世界にたくさんあるわけで、それらの言語のあり方、そしてそれらが言語接触とどのように対処しているか、どのように対処すべきか、という点にも、ときどき視点を移してみたいと感じます。同じ言語接触でも、その意味がいが大きく変わってくるかもしれません。