身体性、精神性 — ネルケ無法

ネルケ無方著 『迷える者の禅修行――ドイツ人住職が見た日本仏教』(新潮社、2011年)

神父として来日した Willem A. Grootaers氏の本を読んだあと、今度はドイツで坐禅と出会ったことがきっかけで来日し、安泰寺の住職となったネルケ無方氏の本を読みました。修行中のさまざまな体験がわかりやすく書きつづられています。正直なところ、「びっくり」の連続でした。それでも、いろいろな意味で希望が持てる本です。(2011年5月)

少し気になったところを引用してみると、
「今ここ、この自分が仏にならなければ」という仏教の原点が、今の日本ではあまり理解されていないのではないか、という気が私にはしています。(p. 11)

目次を読むだけでも、どのような内容のことが書かれているかがある程度把握できます。少し詳しいですが、以下に記してみたいと思います。

まえがき
どこのドイツだ?/安泰寺の修行/誤解だらけの日本仏教/葬式だけが仏教か?/修行は生き方の実践である

第一章 ドイツで仏教と出会う
1986年、ドイツに生まれる/母の死/神様はどこにいるの? 僕って誰?/坐禅との出会い/殻からの出口/ドイツのZEN/禅僧になりたい!/二人の祖父の影響/はじめての来日/日本で仏教が見つからない/焦燥の大学生活

第二章 憧れの修行生活
門前払い/お前は「現成公案」も知らないのか?/安泰寺へ/修行生活のスタート/地獄の作務/安泰寺の雲水たち/坐禅だけが修行ではない/下山

第三章 出家はしたけれど・・・
迷いと決断/出家。そして「無方」という「戒名」/二頭の山羊/ドイツ人に日本人の味は分かりません/「お前は靴底のチューインガム」/コップの水を空にして/カフカの鼠/山をおりてゆく仲間たち/ドイツに帰りたい・・・

第四章 京都てなもんや禅寺修行
掛搭志願/庭詰めと追い出し/旦過詰め/初相見/ドイツ人がなぜ修行をしているのか?/「末単」という存在の耐えられない軽さ/過酷な食事/恐怖の警策フルスイング/日本仏教のエリートには絶対に負けない!/軍隊よりも、地獄よりも・・・/老師との問答/不眠不休の臘八接心/方便が利く/「生きる」ことは、問題ではなく答えだった/我が名は、「ゲシュタポ」/この修行で、はたして人を救えるのだろうか/選佛場

第五章 師匠との決別
大藪先生との再会/「地に起く」。再びの安泰寺/寺の経営がピンチです/限界寸前・・・/格外の志気、感応道交/お前は波紋だ!

第六章 ホームレス雲水
ある決意/ホームレス入門/ディオゲネスの樽/ホームレスの「正法眼蔵」/四苦八苦/石垣の上の「お堂」/美しき闖入者/花でもなく草でもなく

第七章 大人の修行
雪のバレンタインデー/住職になる/安泰寺の「改革」/修行とは何か/トマトときゅうり/人生のパズルは一人では解けない/群を抜けて益なし/生きることと働くこと/日本人と欧米人の身体感覚/居眠りに憧れるドイツ人/羊たちと羊飼い/弟子が師匠をつくる/喜心・老心・大心/生死はみ仏のおん命/「迷える者」でありつづける

あとがき

ネルケ無方著 『裸の坊様――異文化に切磋琢磨される禅プラクティス』(サンガ新書、2012年)

ネルケ無方氏の二冊目を読みました。キリスト教から議論がスタートするので、とても理解しやすいと感じました。(2012年9月)

印象に残ったところを引用すると、
「その解決を哲学書に求めてもしょうがないし、仏教書に求めてもしょうがない。偉いお坊さんの説教を聴いてもしょうがないし、坐禅だけしていてもダメなのです。生きるということにつまづいた人は、ただ生きることによってしか救われません」 (p. 97)

目次も載せておきます。

第1章 禅とキリスト教
第2章 安泰寺の禅~坐禅と自給自足
 1.禅としての自給自足
 2.坐禅
第3章 出家失格
第4章 共に禅を生きる
第5章 全世界が叢林

ネルケ無方(著) 『禅の教え — 生きるヒント33』(朝日新書、2012年)

もう一冊、ネルケ無方氏の本を紹介します。仏教用語から日本語の日常語になった語の解説など、コトバについての記述もたくさん含んでいます。それから、お名前についても少し苦労しておられるようです。以下の引用、たしかにそうだと思いました。私もよく名前を間違えられるので、納得するものがあります。

「『ただいまよりケルネ先生のご登場です。拍手でお迎えください』私は私です。「ケルネ」でも「ネルケ」でも、本来どちらでもいいのです。しかし、・・・愛語の実践による絆作りは相手の名前を覚えることから始めたいものです・・・」 (p. 184)

以下は、少し長くなりますが目次のリストです。

一章 出会うものすべてが自己
 わたし次第、あなた次第
 少欲知足という生き方
 ドイツ人の私がなぜ、住職に?
 天国じゃなくて、よかった!
 宝くじが当たったら
 水増しをしても、混ぜ物はするな
 弟子がバカなら、師匠もバカ
 トマトときゅうり
 大人とは何か?
 本当の仏教とは?
 檻の中の凡夫
 足下の一滴
 お互い凡夫なのだ

二章 あなた自身を手放す
 ゲテモノの修行
 宗教のつまみ食い
 風吹け、雨降れ!
 だしがきいていない!
 君は修行のイロハも知らないのか
 If not now, then when?
 菩薩の誓願

三章 無常を観じる
 心おこし
 人生に賞味期限なし
 自分のためでも、人のためでもない
 私が救われる前に、まず・・・
 百千万発する私の願い
 自分に喝!
 ブレストフィーディング
 執着はだめでも、愛着がなくちゃ
 俺の名前は?
 暖房より暖かいもの
 さまよえるフランス人
 山のように、海のように
 無方、それでも空にちらばらない

ネルケ無方著 『ただ坐る――生きる自信が湧く1日15分坐禅』(光文社新書、2012年)

この本は坐禅のノウハウ本に近いのですが、体とのコミュニケーションということを考えさせられます。(2015年)

印象に残ったところを引用すると、

「坐禅にしても、辛いものを食べた後の坐禅と、甘い物を食べた後の坐禅と、酸っぱいものを食べた後の坐禅の中身がそれぞれ違うということは、実際にやってみればすぐに分かるはずです。坐禅が変わるだけではなく、自分自身が食べ方によって変わるのです」 (p. 108)

目次

はじめに
第1章 坐禅との出会い
第2章 なぜ今、坐禅を?
第3章 まず、頑張りすぎないこと
第4章 環境をととのえる
第5章 坐禅に向かう態度
第6章 坐禅に必要なもの:座布団、衣服
第7章 調身―身体をととのえる
第8章 調息―呼吸をととのえる
第9章 調心―心をととのえる
第10章 禅と実生活

ネルケ無方(著)『曲げないドイツ人 決めない日本人』(サンガ新書)

読者としては、ステレオタイプを構築しないように読む必要があるものの、文化の違いについての観察が鋭いと感じます。企画からスタートしたと思われる本です。(2016年)

以下は、本からの引用です。

「この根性の元は、やはり、子どものころから早起きして一日の流れを自分の努力で決める体験をしていないことと関係している気がします。起きていたら、日はもう昇っていた、朝ご飯を食べていたら、もう学校の時間だった。学校が終わったら、日はもう沈んでいた。いつも時間に追われていた。管理されていた環境に身をおいていた・・・。/ 自主的に時間を使い、自分の時間を過ごした経験がないのです。/ これでは『私の時間を、私が創造する。この一日は私のもの』という感覚も、『私の行動の責任は、私以外の誰にもない』という考えもまったく育ちません」(p. 132)

ネルケ無方(著)『日本人に「宗教」は要らない』(ベスト新書、2014年)

日本の生活の中に見られる、宗教と呼ばなくても宗教的な感性を感じさせる部分に光をあてた著書になります。宗教とはそもそも何か、ということを考えさせられます。明治維新のときに日本政府が仏教を切り捨てたおかげで、仏教が世界的なスケールのものになったという解釈もなかなか面白いと思いました。(2016年)

以下は、印象に残った箇所の引用です。

「これが日本全国に広まるかどうかはわからないが、体の中に、ひとつの元気な細胞があれば周囲の細胞も少しは元気になるかもしれないと思い、継続していくつもりだ」(p. 202)

目次もご覧ください。

はじめに — ドイツ人住職から見た「日本人の宗教観」
第1章 「日本人は無宗教」って、本当? — 日本と欧米社会の差異
第2章 ここがすごいよ、日本仏教
第3章 ちょっと不思議な、日本仏教
第4章 もし日本から「仏教」がなくなったら・・・ — 日本人の死生観について
第5章 日本人はなぜキリスト教を信じないのか
第6章 日常生活に役立つ「禅」の教え
あとがき